2026年7月28日、東京国際フォーラムで開催された「FPoS Developers Conference 2026」。キーノートスピーチに登壇したオードリー・タン氏は、AIの性能や将来予測からではなく、インターネットが抱え続けてきた一つの欠落から話を始めました。

それは、情報を複製し、世界へ届ける能力に比べて、その情報が誰から発せられ、どのように変更され、問題が起きたときに誰が説明するのかを確かめる能力が、十分に設計されてこなかったことです。

「The internet learned to copy, but it did not learn accountability.」(インターネットはコピーすることを学びました。しかし、説明責任を学ばなかったのです)

Agentic AIは、文章や画像を作るだけではありません。人の代理として情報を探し、予約し、申請し、購入し、送金するところまで進もうとしています。

情報を作る速度だけでなく、行動する速度も人間を超えていくなら、信頼を確認する仕組みも人間の目視だけには頼れません。

今回の講演から見えてきたのは、AI時代には「計算能力」だけでなく、「信頼計算能力」が社会の基盤になるということでした。

Trust by Designは、インターネットが最初から持つべきだった

タン氏が掲げた中心概念は「Trust by Design」です。

信頼を利用者の注意や企業の善意に任せず、誰が、何を、どの権限で行ったのかを、サービスの設計段階から確認できるようにする考え方です。

これは新しいスローガンではない、とタン氏は指摘します。

60年以上前に「ハイパーテキスト」という言葉を提唱したテッド・ネルソンは、情報同士を結ぶリンクを双方向のものとして構想していました。

ネルソンが進めたXanaduでは、別の文書の一部を参照して表示する「トランスクルージョン」という考え方があり、引用された情報は出典との関係を保ち続けます。

現在のウェブは、情報を手軽に複製し、一方向のリンクで結ぶ仕組みを普及させました。その結果、情報が広がる力は飛躍的に高まりましたが、コピーされた後も出典や変更履歴を追跡する構想は中心に残りませんでした。

生成AIは、この欠落をさらに大きくします。文章、画像、音声、動画を低コストで大量に作れる一方、見た目や内容だけから本物かどうかを判断することは難しくなっています。

タン氏は、署名のない動画が、署名のない銀行小切手と同じように、初期状態では信頼されない時代が来ると説明しました。ここで重要なのは、AI生成物を一律に排除することではありません。

誰が作り、どのツールを使い、どのような編集を経たのかを、コンテンツ自身が持ち運べるようにすることです。

C2PAのオープン標準に基づく「Content Credentials」は、その実装の一つです。コンテンツに出所や編集履歴を結び付け、人と機械の双方が検証できるようにします。

真正性の確認を、「よく見れば分かる」という知覚の問題から、署名と履歴を確かめる計算の問題へ移す。これが、信頼計算能力の最初の変化です。

信頼を支える3本柱は、似ているようで役割が違う

タン氏は、デジタル社会の信頼を支えるものとして、Authentication、Authenticity、Accountabilityの3本柱を示しました。

Authentication——誰であるかを証明する

Authenticationは「認証」です。いまアクセスしている人や組織が、本当に名乗っている本人なのかを確かめます。

パスキー、公的個人認証、端末内の秘密鍵などは、パスワードや自己申告だけに依存せず、本人性を確かめるための技術です。FPoSが取り組む強い本人認証も、この柱を担います。

ただし、認証された人が発する情報が、必ず正しいとは限りません。本人確認は信頼の必要条件になり得ますが、それだけで信頼が完成するわけではありません。

Authenticity——それが何であるかを証明する

Authenticityは「真正性」です。その情報や資格、文書、画像が、提示された出所から来たものなのか、途中で改ざんされていないかを確かめます。

例えば、「この動画は報道機関のカメラで撮影され、その後に色調整と字幕追加が行われた」「この卒業証明は大学が発行した」といった履歴や発行元を検証できる状態です。

生成AI時代には、見た目による真偽判定の精度を競うだけでは足りません。生成や編集の過程を記録し、標準化された方法で照合できれば、真正性の確認は機械の速度で進められます。

ただし、真正性は内容の真実性そのものを保証しません。本物の人が誤った主張をすることも、本物のカメラが文脈の一部だけを切り取ることもあります。

Accountability——権力を見て、問い、修正できるようにする

Accountabilityは「説明責任」です。誰が決め、誰が実行し、どの情報を使ったのかを後から確認し、問題があれば問い、訂正し、停止できる状態を指します。

タン氏は、単なるログの保存より踏み込んで、「権力が見られ、問われ、修正できるか」という表現で説明しました。

ここが3本柱の中で、最も社会的な部分です。

暗号技術は本人や署名を検証できます。しかし、なぜその判断をしたのか、被害をどう回復するのか、ルール自体が妥当だったのかは、技術だけでは決められません。監査、報道、司法、市民参加、組織の訂正能力まで含めて、説明責任が成立します。

「Trust is not just a technological property. It is a social relationship.」(信頼は、単なる技術の属性ではありません。社会的な関係なのです)

この3本柱は、足し算ではなく順序でもあります。本人を確かめ、対象の来歴を確かめ、その上で、権限の行使を問い直せるようにする。どれか一つが欠ければ、強固に見えるデジタル基盤にも穴が残ります。

台湾の6つのデモは、信頼を実装する6つの方法だった

タン氏は、台湾で実践された6つの「デモ」を紹介しました。

「These are not copy-and-paste models. They are inspirations to compile in your own environment.」(これは、そのままコピー&ペーストするためのモデルではありません。それぞれの環境でコンパイルするための着想です)

制度や文化の異なる日本が、台湾の仕組みをそのまま輸入すればよいわけではありません。重要なのは、それぞれの事例が、信頼をどのような設計原則へ翻訳したかです。

デモ1:データを土壌にする——マスクマップ

2020年2月、新型コロナウイルス感染症の拡大初期、台湾ではマスクの在庫不足と情報の混乱が起きました。政府は健康保険を扱う当局の在庫データをオープンAPIとして公開し、市民の開発者が薬局ごとの在庫を地図上で確認できる「マスクマップ」を次々と作りました。

政府が完成した唯一のアプリを配布し、「これを信じてください」と求めたのではありません。元になるデータを公開し、市民が検査し、改善し、異なる使い方を生み出せる状態を作りました。

タン氏はこれを「Data Soil」と表現します。データは囲い込む資産ではなく、複数の主体が公共的な価値を育てられる土壌だという考え方です。

ここから得られる学びは、透明性は情報公開の量だけで決まらないことです。機械で読めること、第三者が検証できること、別のサービスを作れることまで設計されて、公開されたデータは信頼の土台になります。

デモ2:入口を覚えられるようにする——1922

危機の最中に、問い合わせ先や正しい情報源が何十個もあれば、市民は毎回その真偽を判断しなければなりません。台湾では感染症に関する政府の窓口として、覚えやすい「1922」が使われました。

これは高度な暗号技術のデモではありません。しかし、正規の入口を短く、覚えやすく、繰り返し使えるようにすることは、偽サイトや偽情報への接触を減らします。

信頼の設計は、裏側のセキュリティだけでは完結しません。利用者が迷わず正しい入口に戻れることも、重要なセキュリティです。

AIエージェントが多くのサービスを横断する時代にも、この原則は残ります。どのエージェントが正規なのか、何を頼んだのか、どこで権限を確認できるのかを、一つの分かりやすい場所から確認できる必要があります。

デモ3:うわさより速く、ユーモアで応答する——Humor over Rumor

偽情報は、訂正情報より感情に届きやすく、拡散も速い傾向があります。そこで台湾の各省庁には、小規模な即応チームが置かれ、広がり始めたうわさに対して、2時間以内を目安に、正確で共有しやすい回答を出す体制が作られました。

タン氏が繰り返してきた言葉が、「Humor over Rumor」です。

「うわさには、ユーモアで対抗する」

正しいが長くて読まれない文書を翌日に出しても、すでに形成された印象を覆すのは難しい。公式情報にも速度と伝わりやすさが必要だという判断です。

政府だけでなく、市民参加型のファクトチェック・コミュニティ「CoFacts」も活動しました。講演では、約30万人が利用し、ボランティアによって運営されている事例として紹介されました。

ここでの要点は、信頼できる主体が「間違えないこと」だけではありません。疑問や誤情報に対して、社会が間に合う速度で応答できることです。

生成AIが誤情報の生産量を増やすなら、対策も一件ずつの目視確認から変わらなければなりません。検証パターン、根拠、訂正文を組織間で共有し、再利用できる仕組みが必要になります。

デモ4:データに寿命を設定する——Sunset Trust

2021年、台湾では店舗などのQRコードを読み取り、接触履歴をSMSで「1922」へ送る仕組みが導入されました。電話番号は事業者側に渡さず、接触追跡に必要な情報は一定期間後に削除する設計です。タン氏は、15桁のランダムコードと、28日後の自動削除を説明しました。

これは「Sunset Trust」、つまり期限のある信頼です。

データを集める目的が終わっても、「将来役立つかもしれない」という理由で保存し続ければ、漏えいや目的外利用のリスクが残ります。必要な期間を先に決め、その後は消えるようにすることで、市民はシステムが何をしないかまで理解できます。

「If you can explain the system in one sentence, that is a good test of trust by design.」(そのシステムを一文で説明できるなら、それはTrust by Designのよいテストです)

複雑な利用規約を読んだ人だけが安全になるのではなく、収集する情報、利用目的、保存期間を誰でも説明できるようにする。AIにデータを渡す場面でも、この原則はそのまま使えます。

デモ5:止めることを失敗にしない——Pause

台湾政府は2021年、新しいデジタルIDの導入計画を一時停止しました。市民社会や研究者から、プライバシー、監督、システム設計に未解決の問題があると指摘されたためです。

行政のデジタル化では、予定通り公開することが成功と見なされがちです。しかし、問題を把握しながら進めれば、後から制度全体への信頼を失います。

タン氏が示したのは、「止められること」も信頼設計の一部だという考え方です。

その後、台湾では2024年から国際標準を踏まえたデジタルIDウォレットの取り組みが進みました。必要な属性だけを示す選択的開示を取り入れ、例えば氏名や生年月日をすべて渡さず、「一定年齢以上である」という事実だけを証明できる方向です。

一度止めたことは、デジタルIDを否定したことではありません。市民が検証でき、必要な情報だけを提示できる設計へ更新する時間を作ったのです。

AIサービスにも、公開延期、中断、権限の縮小、ロールバックを正常な機能として組み込む必要があります。止められない自動化は、信頼できる自動化とは言えません。

デモ6:深刻なルールを市民と作る——ディープフェイク対策

2024年、台湾では、本人になりすました合成コンテンツへの対策をめぐり、大規模な市民参加型の議論が行われました。講演では、約200万通の案内が送られ、447人の市民審査員が参加したと説明されました。

論点は、AIで作られたコンテンツを一律に禁止することではありません。風刺、創作、匿名表現を守りながら、本人が実際に発言したように見せる詐欺的な合成には、開示を求めることでした。

タン氏は、この取り組みによって、対象となった制限チャンネルで詐欺を98%以上抑えたと報告しました。

数字の成果と同じくらい重要なのは、技術者や政府だけで境界線を決めなかった点です。何を危険ななりすましと見なし、どこまでを正当な表現として守るのかは、社会の価値判断を伴います。だからこそ、当事者となる市民がルール形成に参加する必要があります。

6つのデモを並べると、台湾の強さは「政府が正解を知っていること」ではないと分かります。

データを公開する。正しい入口を覚えやすくする。疑問に速く応答する。データに寿命を設ける。問題があれば止める。社会的な境界線は市民と決める。

信頼とは、完成したシステムに付ける認証マークではありません。運用中に検証し、直し続けられる能力です。

Agentic AIは、認証の問題を「委任」の問題へ変える

ここからが、今回の講演で最も重要な接続です。

これまでのデジタルサービスでは、本人が画面を開き、内容を確認し、ボタンを押すことが前提でした。Agentic AIでは、本人に代わってAIが複数のサービスを移動し、判断や手続きを進めます。

すると、「このAIは本物か」という認証だけでは足りません。

本人は何を頼んだのか。どこまでの権限を与えたのか。いつまで有効なのか。上限金額はいくらか。どのデータへのアクセスを許したのか。途中で別のAIへ仕事を再委任してよいのか。実行後に、何が行われたかを確認できるのか。

必要なのは、AIエージェントに対するデジタルな委任状です。

さらに、委任状だけでなく、実行のたびに利用明細が返されなければなりません。エストニアのData Trackerでは、市民が行政ポータルから、自分のデータにどの機関が、何の理由でアクセスしたかを確認できます。Agentic AIにも、同様の「データと権限のレシート」が必要です。

そして、委任と明細に加えて、いつでも権限を止められることが必要です。

つまり、Agentic AI時代の信頼設計は、次の3点に整理できます。

  • 委任:目的、範囲、期間、上限を明示する
  • 明細:参照した情報、実行した処理、再委任先を記録する
  • 停止:権限を取り消し、処理を中断し、必要なら元に戻す

これは、松村なりに今回の講演から見いだした解決の糸口です。

「信頼計算能力」は、クラウドから端末へ移り始める

もう一つ興味深かったのが、信頼を計算する場所の変化です。

従来のクラウドAIでは、利用者のデータをクラウドへ送り、事業者のサーバーで処理する構成が一般的でした。利用者は、事業者がデータを適切に扱うことを信頼しなければなりません。

一方、端末上で動くローカルAIの能力が高まれば、個人の文書、会話、予定、医療情報などを外部へ送らずに処理できます。タン氏は、MacBook上で動くローカルAIの例を挙げ、センシティブなデータを端末から出さずに計算できる可能性を示しました。

ここでは、信頼の重心が変わります。

大規模な事業者にデータを預けることで得ていた計算能力の一部を、自分の端末で確保できる。さらに、認証、デジタル署名、Content Credentials、Verifiable Credentialsを組み合わせれば、AIは個人情報の中身をすべて外部へ見せずに、必要な資格や出所だけを確認できます。

真正性の確認は機械の速度へ近づき、プライバシーを守ったまま信頼を計算できる場面が増えます。

しかし、Accountabilityまで自動的に解決するわけではありません。

AIが正しい署名を確認できても、その制度が公平かどうかは決められません。AIが規約どおりに処理しても、その規約自体が利用者に不利益かもしれません。処理速度が上がるほど、誤った権限設定による被害も速く広がります。

「Technology changes. The burden of proof does not.」(技術は変わっても、立証責任は変わりません)

信頼計算能力が高まるほど、人間には、何を証明すべきかを決め、証明できないものを公開し、異議申し立てを受け付ける役割が残ります。

AIは蛇口から使う。社会の上には置かない

タン氏は、Agentic AIとの関係を短い言葉で表現しました。

「AI on tap, not on top.」(AIは蛇口から使うものであり、人間の上に置くものではありません)

必要なときに能力を引き出せる道具としてAIを使う。一方で、社会の目的、ルール、最終的な意思決定をAIの側に置かないという原則です。

この原則を実装するために、FPoSが果たせる役割を、講演から「Bridge」「Bank」「Broadcast」の3つとして読むことができます。

Bridgeは、国や企業をまたいでクレデンシャルをつなぐことです。台湾と日本の仕組みをオープン標準で接続し、単一企業がデジタル生活の唯一の入口にならないようにします。

Bankは、詐欺パターン、検証方法、評価結果を蓄積することです。攻撃側がAIで手法を更新するなら、防御側も組織を越えて評価スイートを共有し、Gitでコードを更新するような速度で学ぶ必要があります。

Broadcastは、答えだけでなく「答えられないこと」も公にすることです。システムが判断できない、証明が足りない、想定外の問題が起きた。その事実を隠さず共有することが、次の改善と社会的な監督を可能にします。

信頼できるAIとは、常に正解を返すAIではありません。

誰から何を委任されたかを示し、行動の明細を返し、分からないときに止まり、その限界を公にできるAIです。それを支える組織にも、同じ能力が求められます。

信頼は、掘り当てる資源ではなく、耕し続ける土壌である

タン氏は、信頼を技術によって一度獲得すれば使い続けられる資産とは捉えていませんでした。

認証を強くするだけでも、データを公開するだけでも、AIに説明文を作らせるだけでも足りません。市民が検証できること、組織が間に合う速度で応答すること、不要になったデータが消えること、問題があれば止められること、異議によって制度を修正できること。その積み重ねが、信頼を育てます。

講演の最後に、タン氏はこう語りました。

「Trust is not oil you can drill. Trust is soil you must till.」(信頼は、掘り出すことのできる石油ではありません。耕し続けなければならない土壌です)

そして、締めくくりの言葉は、Trust by Designが技術の話だけではないことを改めて示すものでした。

「Work is not machines believing other machines. It is the people deciding together, in public, that our shared systems deserve our belief.」(私たちが取り組むべきことは、機械が別の機械を信じるようにすることではありません。共有するシステムが信頼に値するのかを、人々が公の場で、ともに決めることです)

AIが社会の中で行動を始める今、必要なのは、AIを無条件に信じることでも、AIを遠ざけることでもありません。

何を委ね、何を記録し、どこで止め、誰と修正するのか。その仕組みを、人間が開かれた場で決め続けることです。

Trust by Designは、信頼を自動化する設計ではありません。

信頼を、検証し、問い直し、育て続けられるようにする設計なのです。

※本記事は英語で行われたキーノートスピーチの取材記録を基に構成しました。引用の日本語は筆者訳で、読みやすさのために意味を変えない範囲で整えています。数値を含む講演内の説明は、講演での発言であることが分かるように記載しました。

参考資料

  • 「FPoS Developers Conference 2026 Audrey Tang Speech 2026/07/28」講演記録・取材メモ
  • Taiwan Ministry of Health and Welfare, “Digital Minister Audrey Tang gathered private sectors to use open data to develop the face mask map”
  • Taiwan Ministry of Digital Affairs, “MODA Launches Pilot and User Experience of the TW Digital Identity Wallet”
  • Coalition for Content Provenance and Authenticity(C2PA), Content Credentials / Technical Standard
  • W3C, “Verifiable Credentials Data Model v2.0”
  • e-Estonia, “Data tracker – tool that builds trust in institutions”